記事概要 勉強方法や指導方法は数えきれないほどあります。どの勉強方法・指導方法が自分に適しているかは人それぞれです。今回は、今や禁じ手となっている「体罰」という指導方法について解説していきます。必ずしも、体罰を推進するつもりはありません。
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体罰とは
体罰とは、身体的な苦痛や損傷を与えることで、不良行為を矯正しようとする行為のことを指します。叩く、殴る、蹴るなど物理的な暴力に加え、立たせるといった行為も体罰に当てはまることもあります。形としては、教育的意義を持って行われると説明されます。
今や絶対悪となった体罰
1990年代に子どもの権利条約が国連で採択されて以降、先進国を中心に暴力を伴うような指導は控えるべきという考え方が主流となりました。日本も同様で、体罰を行った大人を徐々に厳しく罰することで、体罰の発生を抑え、根絶を目指すようになりました。
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いずれにしても、体罰の発生件数や、体罰を原因とする自殺や死亡件数は、20世紀以降、減少傾向にあります。
ちなみに、教員採用試験の面接試験の際に、体罰を容認するような発言を少しでもすると、他の試験の成績どれだけよかろうと、確実に不合格になります。それくらいに、体罰を行ってはいけないという共通認識は、教員の間では徹底されているはずです。
体罰はないに越したことはない、しかし体罰が合う人もいるに違いない
本記事の概要にも記しましたが、適切な勉強方法や学習方法は人それぞれです。動画を見て学習する人、その動画を倍速で見たほうが、学習効率が上がる人、自分に合った指導スタイルの先生や塾講師の下で学習したほうが、最大限の効果を発揮できる人、黙々と本を読んで独学で勉強する人、音楽を聴いていたほうが集中できる人、隙間時間に勉強がはかどる人、単語カードが丁度いい人、スマホアプリで効果的に勉強できる人。どの方法も本人にはベストな方法でしょうし、どれも強制させられる学習方法ではないはずです。同様に、体罰も誰かにとってベストな学習方法であり、指導方法であるかもしれません。これはいわば悪魔の証明であり、「体罰が最悪の指導方法である」ということを証明することは不可能です。
もちろん、体罰を推奨するつもりは毛頭ありません。進んで体罰を行おうとするような教員は、今は存在しない、存在できないはずです。しかし、歴史的な背景を見れば、体罰を経て成長してきた大人はたくさんいるはずですし、体罰の経験を経て才能を発揮してきた歴史上の人物も無限にいるはずです。何度も言いますが、体罰を推進するつもりはありませんし、体罰が存在しないに越したころはありません。それでも、体罰は子どもを指導する方法の一つであるということは、体罰を徹底的に悪とする人でも認めるべきです。それでも、体罰=教員の悪ととらえるのであれば、教員の人権にも目を向けてほしいものです。
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