記事の概要 中学校卒業後の主な進路先の高等学校(高校)。進学率は今では95%を超えていますが、旧制の高等学校ができた明治時代の進学率は1%以下でした。今回は日本において初めて「学校」が誕生した、明治時代の教育事情について解説していきます。
日本で初めての「学校」の誕生
江戸時代の教育
江戸時代には、「読み・書き・そろばん」を主に習う「寺子屋」という、塾のようなものがありました。しかし、全国共通の教科書を使い、時間割りを作り、年齢に応じた学年で学ぶという「学校」はありません。鎖国により外国との交流を避けていた江戸時代が終わると、明治新政府は、アメリカやヨーロッパという進んだ国々に追いつけとさまざまに計画します。
学制発布
1870年代、明治政府は「富国強兵」というスローガンを提唱します。これは「国を富ませ、強い軍隊を持つ」という意味です。「強国の日本」をつくるため、明治政府は明治5(1872)年に「学制(学校制度の基本方針)」を発布します。学制とは「子どもは学校で勉強しよう」という考えで、この考えを明治期の一般人に定着させようとしたのです。学制の思想の中には、日本全体の学力を上げる目的で、日本人全員が学校に通うという、「国民皆学」という方針が示されました。
学制による「学校」の誕生
子どもを学校で勉強させるにはまず、数多くの学校が存在しなくてはならない。そこで明治政府は、全国にバランスよく学校を設立するために、まず日本全国を地域ごとに大学区・中学区・小学区に分けました。大学区というのは現代で言う、8地方分け(関東地方や九州地方などの地区分け)に近い、隣接する地域ごとの区分の仕方です。大→中→小となるにつれ、地域分けは細かくなっていきます。
そして、大学区に置く学校を「大学」、中学区に置く学校を「中学校」、小学区に置く学校を「小学校」と名付けました。学制が発布された1872年では、大学区が8、中学区が32、小学区が210ありました。
そこで、大学区・中学区・小学区ごとに1校ずつ学校を設立することになりましたが、学校の整備は簡単には進みませんでした。たとえば大学(帝国大学、現在の東京大学。京都に新しく帝国大学を設立したことで、その後は東京帝国大学「東京帝大」という名前となります)が設立されたのは1886年でした。また、中学校、たとえば東京府立第一中学校(府立一中、現在の東京都立日比谷高等学校)が誕生したのは1878年のことでした。
明治5年では、高校(高等学校)という言葉も考えも、そして、設立の計画もありませんでした。
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