記事概要 今日の日本では、体罰はいかなる場合でも許されるものではないという考えが浸透しています。現役の教員にとって、これは生徒(生活)指導を行う上での常識になっていますが、実際に現場の教員は体罰についてどのように考えているのかについて解説していきます。
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校種による思考の違い
現在の学校では、体罰を行う教員はいないはずです。校内暴力の嵐が吹き荒れた1980年代以前であれば、そんな教員も生存していたかもしれませんが、21世紀の今、体罰を繰り返す教員はいないはずです。そんなのがいれば、すぐに市区町村教育委員会に目を付けられるはずです。むしろ第三者の目がないという点で考えれば、公になっていなくとも私立学校のほうが体罰の数は多いかもしれません。
体罰を行う教員が減ったのは確かですが、体罰が必要なものであると考えるかは、校種によって考えが異なるでしょう。幼稚園、保育園、小学校で働いている多くの教員は、体罰は教育に必要ないと考えています。むしろ、それらの校種で体罰を行っているとしたら、その教員はそうとうに異常な人物です。小学生や幼稚園児に体罰をしようものなら、子どもによってはすぐに死に至るでしょう。ゆえに、これらの校種の教員に、体罰を容認する人はほぼいないでしょう。
一方、中学校や高校教員の中には、体罰を行う行わないは別として、体罰を教育的指導の一つだと思っている教員がいるのは事実です。誤解がないようご説明すると、現代の教員で、体罰を行いたくて行っている教員はほとんどいないはずです。それでも体罰を行うような教員は、すでに教員免許をはく奪されているに違いありません。体罰を行った教員に対しては、それくらい厳しい処分が下されます。そんな状況でも、中学校や高校では、体罰は絶対悪だとは思っていない教員が確実にいるでしょう。
体罰を絶対悪とみなさない理由
もちろん、体罰なしに指導できるに越したことはありません。そんなことは誰だった理解しています。それでも、『体罰はダメだ』と思わない教員がいます。「教員が体罰(暴力)で制しないと、学校の秩序が保てない、教員が暴力を受ける」等が、体罰を否定しない教員の考えの根本だと、Garudaは感じます。
これには「正当防衛」の原理が考えの根幹にあるでしょう。自分が傷つけられたり殺されたりする可能性があるのなら、相手を傷つけ殺す理由になる。これは先生と生徒の関係性のみならず、同種異種関係なく、いかなる生物間でも当てはまることではないでしょうか。この考えを否定するあなたは、18歳未満の人間が包丁を持ってあなたを殺そうとしているときに、生きようと抵抗するべきではないでしょう。それでも「暴力で解決するべきでない」、「体罰はいけない」と思う人には、突発的に発生した事件に対して、例えばその加害者によって両目を失明されようとも、下半身不随にされようとも、不平不満は言う権利はないでしょう。
極端な例だと思うかもしれませんが、荒れた学校の教員には、このような場面に出くわすことがあります。子どもが引き起こした殺人事件の事例を挙げれば、きりがないでしょう。教員自身も殺されかねないときがあるので、子どもに体罰や暴力をふるってしまうことがあります。21世紀の今、自ら進んで暴力を使う教員はめったにいません。けれど、自らが死ぬ可能性があれば、体罰に頼るような状況が発生するのです。
しかしながら今日、体罰の基準が拡大解釈され、「でこぴん」を始めとして、思わぬ行動が「体罰」として認定されることもあります。事件として体罰のニュースを聞くと、教員が全て悪いような報道が大多数です。けれど、体罰が発生する背景は、単純な話ではないことが多いということを頭に入れてほしいものです。
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