臭いものに蓋をする、誰も批判しないエクスクルーシブ教育

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 昨今、インクルーシブ教育を推奨するようなトレンドがあるが、インクルーシブという言葉にはエクスクルーシブという対義語がある。インクルーシブ教育が好ましいという風潮だが、エクスクルーシブ教育は減少傾向にあるのか。実情はその逆である。表向きには「すべての子どもが共に学ぶ社会」が理想とされているが、現場や社会の深層ではいまだに排他的な教育が当然のように存在しており、しかもその存在にほとんど誰も異を唱えない。

 インクルーシブ教育が「だれもが同じ教室で学ぶ包括的な教育」なのに対し、エクスクルーシブ教育とは、特定の層だけに教育機会が偏り、他の子どもたちが意図的・無意識的に排除されるような教育のあり方を指す。たとえば、経済的に豊かな家庭が集まる私立校、偏差値至上主義に支配された進学校、いわゆるギフテッド教育などは、明確に「選ばれた子ども」だけが恩恵を受ける仕組みになっている。障害のある子どもや外国にルーツを持つ子どもが通常学級で適切な支援を受けられない状況もまた、エクスクルーシブな現実である。

 教育の現場において、こうした「排除」は見えにくい形で進行している。制度的には公平を装っていても、実際には家庭環境や地域差、保護者の情報リテラシーによって子どもの将来が大きく左右される。たとえば、同じ義務教育を受けていても、都市部の恵まれた学校と、過疎地の人手不足に悩む学校では教育の質に歴然とした差がある。塾や習い事に通える子とそうでない子の差は広がる一方であり、補助金制度や支援団体が存在しても、現場の苦しみを根本的に救えてはいない。

 教育格差の存在はすでに統計でも明らかになっているが、それが「エクスクルーシブ教育」として明示的に批判されることはほとんどない。なぜか。この国では、表向きの制度の整合性が保たれていれば、それで問題が解決したかのように見なされるからである。「制度はある」「支援は用意されている」「家庭の努力次第で乗り越えられる」――そうした言葉が飛び交い、本質的な構造の歪みには誰も踏み込まない。臭いものには蓋をするのが、この国の教育の習性である。

 本来ならば、すべての子どもが平等に教育を受ける権利を持つはずだ。だが、現実には教育機会の分断は日常的に起きており、それはインクルーシブ教育の理念とはかけ離れている。「共に学ぶ」が掲げられる陰で、「選ばれた者だけが進める」教育の道が静かに敷かれている。そしてその静かさこそが問題の根深さを物語っている。誰もが見て見ぬふりをするから、格差は固定化され、再生産され続けるのだ。

 インクルーシブ教育が強調されるほどに、かえってその裏側のエクスクルーシブな現実が際立ってくる。だが、それに声を上げる者はほとんどいない。教師は現場の忙殺に追われ、保護者は自分の子を守るのに精一杯、政治家や行政は票にならない問題には手を出したがらない。こうして、エクスクルーシブ教育は、誰にも批判されることなく、社会の中で静かに、しかし確実に広がり続けている。

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