記事の概要 今回は、第二次世界大戦後の1948年に、全国一斉に誕生した高等学校(高校・新制高校)の入試制度の変遷について、東京都を例に書きます。
「6・3・3」制からの、「6・6」制中高一貫校の増加についてはこちら
アチーブメントテスト時代
第二次大戦後、アメリカ教育使節団の調査・報告に基づき、我が国の義務教育は中学校卒業までの9年間に延長され、男女共学の下で、小学校が6年、中学校が3年、高等学校が3年、大学が4年という、「6・3・3・4」制がスタートしました。「全国一斉に誕生した」と書きましたが、長い歴史をもつ高等学校(高校、旧制高校に対して、新制高校とも呼ばれます)の多くは、第二次世界大戦前からの5年制の旧制中学校や高等女学校や実業学校が原点でした。
高校は義務教育ではありませんので、入学を希望する生徒には選抜試験を実施します。しかし、新制高校は発足したばかりで、さまざまな制度が調整段階であったため、東京都では入学試験に代えて、都内の各中学校でアチーブメントテスト(学習到達度テスト・学力テスト)を実施・採点し、その結果で高校合格を判定していました。
なお東京都では、都立高校の入学者選抜を「試験」とは言わずに「検査」と呼びます。そして、1954年から各都立高校が「入学検査会場」となりました。
学区合同選抜時代
東京都立の普通科高校への入学検査として、1952年から学区合同選抜が始まります。学区とは、東京の23区を隣接する3~4区でグループにしたもので、千代田区・港区・品川区・大田区で構成される第一学区から、墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区で構成される第六学区まで、6つの学区がありました。なお、市町村部だった多摩地区は地区全体で第7学区とされました。それぞれの地区に住む生徒は、所属する学区内にある学校にのみ、進学を希望することができます。
東京都の各学区には、第一学区であれば日比谷高校、第二学区であれば戸山高校・新宿高校、第三学区では西高校と、東京大学を始めとする難関大学に多数の合格者を毎年出す進学校がありました。都立普通科高校への進学を希望する生徒は、自身が所属する学区の高校に希望順位を書いて出願します。
当時の学区ごとの進学校についてはこちら
「合同選抜」では、第1志望に仮に不合格でも、得点が学区全体の最低点以上であれば「学区合格」となり、第2志望、第3希望とした高校に入学することができました。入学検査の際に、ある程度の点数をとることができていれば、偏差値が高い低いはどうであれ、学区内のどこかの都立高校には入学することができたという訳です。したがって、現在とは異なり、都立高校を志願して不合格となった成績上位者の全てが、私立高校に流れることはありませんでした。
なお、1956年から検査教科は9教科全てとなり、二日間かけて検査が行われました。
この続き(高校入試の変遷2 学校群制度・グループ合同選抜)はこちら
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