記事概要 立場や時代にかかわらず、公立私立を問わず、学校の教員が思っているけど言えないことについて説明します。今回は、「いじめは悪」という考えは子どもの将来のためになるのか、社会に出てから困ることはないのか、について解説していきます。これらは、公言すると、PTA、人権団体、新聞等のマスコミ、評論家、教育学者などその他もろもろが黙っていないので、現役の教員は絶対に主張しない(できない)ことです。
いじめに起因する「教員・学校いじめ」(前回記事)はこちら
「いじめは悪」という教員にとっての常識の考え方についてはこちら
大人になったら、いじめのない環境で生活することができるようになるのか
現在の日本では、「第3次産業」と呼ばれるサービス業が、仕事の多くを占めています。どんな仕事に就くにせよ新卒の働き手は、山にでもこもって自給自足の生活をしない限り、どこかしらの組織に所属して働くことを強いられることでしょう。そして、組織や団体など人が集まる環境で生活をすることになれば、大人こそ「いじめ」という言葉を使わないものの、人間関係のいざこざは発生するものです。日本の組織に属する限り、「モラハラ」「パワハラ」といった精神的・身体的にダメージを受けることは必ずあります。いじめがなくならないことについてはこちら。
つまり、社会に出ればだれもがいじめを受ける可能性のある環境に身を置くことになるということです。となると、児童生徒に対し教員が行うべきは、「いじめられている児童生徒の味方になる」よりも、「いじめられようと、精神的・肉体的に攻撃されようと、適切に対処する能力を育てる」ほうが実用的なのではないでしょうか。
いい人ばかりの社会ではない
残念ながら、だれに対しても怒りや不満を抱かず、また、悪口や誹謗中傷を一切行わないという人はほとんどいません。人類は心の美しい人ばかりではありません。親切心でやったことが、相手にとって有難迷惑になるなど、意図せず人に不快感を与えてしまうことさえあります。あなたがいかに聖人君子であっても、あなたのことをよく思わない人は必ずいます。
学校は「いじめから子どもを救う」ことをモットーとしています。これは素晴らしい考え方です。学校内には、教員や友達といった、助けの手を差し伸べてくれる人がいます。しかし、社会に出たら、いじめの被害者をだれも助けてくれない場面が多く見られます。学校という教員に守られた環境の中でしか生き抜くことができない生徒を育ててしまうのは、生徒に対して無責任な対応なのではないでしょうか。
社会に出て必要なスキルと、そのスキルのない被害者意識の強い子ども
人のことを考える、自分の意思を主張する、人から言われたことをうまく処理する(言われたことを気にしない、悪口を言われようとも受け流す)、Noと言えるようになるというようなことは、学校内のみならず社会に出ても、必須の能力です。これらを習得できなければ、いずれ社会に出ても対人関係において支障をきたすはずでしょうす。むしろ、社会人になったらなったで、これらの能力に欠けることこそ、大人の社会におけるいじめの原因になります。結局のところ、いじめられっ子にはいじめられっ子たる理由があるのです。
いじめられっ子にも非はあるはこちら
したがって、ただ単に「いじめは悪」という考えのもとでは、社会に出て必要なスキルは育ちません。「いじめっ子がすべて悪い」、「いじめられっ子に悪い点は何もない」という考えは考えのもとでは、いじめられっ子に改善すべき点がないからです。しかし、どのような環境でもいじめられてしまうような子ども、または、「いじめられた」という被害者意識ばかりの強い子どもを社会に送り出してしまうことのほうが、社会にとっての不利益につながるのではないでしょうか。社会の現実や現状を考えたとき、「いじめは悪」という考え自体が、子どもにとっても大人にとってもマイナスとなるかもしれません。
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