感謝は自発的にするもの

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公立学校の教員は学校に着任すると、教員は部活動の顧問を任される。自分が技術的に指導できる部活動であれば都合がいいこともあるであろうが、基本的には、学校を離任した(移動した)教員が担当していた部活動の顧問とパターンが多い。担当する部活動を自由に選択することができるということはかなりまれなケースである。加えて、部活動の顧問になるということを拒否することはほとんどできないだろう。たとえ部活動顧問を拒否したくとも、周りの教員の圧力で断れない状況ができていることがほとんどである。経験もない部活動の顧問になるということは、教員の世界ではよくある話である。

経験したことのない競技の部活動の顧問になる。その競技を経験したことのない教員が顧問となると、多くの場合子どもは、その顧問に対してなんの興味ももたない。というより、技術的指導をしてくれない部活の顧問に、子どもはほとんどなにも期待しない。極端な場合だと、その教員を下に見る子どもが出てくるときもある。競技経験のない部活動の教員は、部活動の場において威厳もクソもないことが多い。

そのような部活動の環境で立場のない教員を救う考え方がある。

「生徒が部活動をすることができるのは、教員がいるから。だから生徒は、教員のおかげで部活動ができるということを感謝しなければならない。」

学校に勤務する人間であればよく聞く言葉ではないであろうか。

たしかに、部活動を行うには、教員が必ずいなければならない。これは学校内だけでなく、試合をしに他校に行く際にも、基本的に教員が帯同しなくてはならない。けがなどの問題が起こった際に責任の所在を明らかにするためである。

だが、「感謝しなければならない」とはどういうことだろうか。

気持ちや考えを強制するというのは、思想統制に結びついてくる。感謝や尊敬は自発的にするものであって、先生に「感謝しろ」「尊敬しろ」と言われて、その言葉どおりに感謝し尊敬するような生徒は、「感謝する」「尊敬する」という言葉の意味を分かっていない。むしろ、先生が言うことはすべて正しいと思っている、先生の発言をすべて信じ切ってしまっているので、自分の意見を持つことや批評する能力が劣っている可能性が高い。非常に危険である。

私には上の言葉が、その部活動の競技を経験したことがない素人の教員が生徒から威厳を持たせるために存在する言葉、のような気がしてならない。

何度も私は主張するが、部活動のシステムがよくない。なんにしても部活動の制度があるので、感謝の強制のようなことが発生するのである。変な思想を持たせないためにも、教員を部活動の制度から解放するべきだ。

感謝は強制するものではない。感謝を感じたときにこそ、自然と感謝をする。

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